あいつはいきなりやってきた。

 “”と名乗るその男は、見るからに身分の高そうな初老の男性に連れられてやってきた。それが何かの式典の時に挨拶をしていた"県令"だったという事に気がついたのは、が県令の名前を親しげに呼んでいたからだ。




同僚による考察




 県令の鶴の一声ではこの村に駐在することになった。
 事情を聞く間も無く、嵐の様に県令が去ってから山形が恐る恐る理由を聞くと、どうやら全国を旅していたが、その道中で県令のお孫さんを暴漢から助けたという話だった。県令はの事をいたく気に入り警察幹部に推薦したらしいが、はひっそり静かに働きたいんだ、と断ったらしくそうして白羽の矢が立ったのが、事件なんて滅多に起きないこの村だった、というわけである。

 山形は正直なところ駐在所にこれ以上人が増えても仕方がない、と思っていた。なにせ滅多に事件が起きないのだ。起きたとしても誰某さんちの飼い犬が誰某さんちの畑を荒らした、とかその程度だ。

 若い男にはさぞかし退屈だろう、そう山形は最初思っていたのだが、その想像を裏切り、が来てから駐在所はめっぽう賑わうようになった。

 最初はよそ者に対するもの珍しさから。
 の顔を見ているだけで幸せな気分になれる、とかのたまう爺さん婆さんもいた。確かにの容姿は吃驚するほど整っていて、男と言われても女と言われも納得してしまう中性的な顔立ちだ。

 何よりは医学をかじっていた。医者なんて居ないこのど田舎ではそれはそれは重宝された。


さん、本当にありがとねえ」


 そう言って息子を抱えた母親が駐在所を出て行った。

────山菜採りをしていた息子が崖から落ちた、と母親が血相を変えて駐在所に飛び込んできたのは半刻ほど前の事だったか。



***



 母親に案内されて向かった崖は大人の身長を優に超えるほど深く、山形は誰かにはしごでも借りないと助け出すことは出来そうにないと判断した。


「山形さん、これちょっと持っててくれますか」

「ん?、お前いったい如何するつもりなんじゃ」


 意図が掴めず生返事をする山形には自身の制帽を手渡すと、ふわりと崖を飛び降りて難なく着地した。
 そして倒れている少年を背中に抱えると足場なんてないように見える崖を二三歩蹴り上げて崖上まで登ってきた。


「骨が折れてますね。山形さん!何か添え木に出来る枝はありませんか?」

「あ、ああ。ちょっと待っちょれ!!」


 人間離れしたの動きに呆気にとられていた山形は突然話しかけられ慌てて周囲を見渡した。幸いなことに手ごろな枝が見つかり、それを手渡すとは持っていた手ぬぐいを裂いて包帯を作り手際よく少年の足を固定した。



***



 駐在所に戻った後、は少年にしっかりとした処置を行い、少年の母親は何度も何度も深く頭を下げて礼をすると少年をおぶって帰っていった。


「それにしてもはなんでそんなに怪我の処置に手馴れとるんじゃあ」

「そうですねえ、家庭の事情、ですかね」


 幾度と抱いた疑問をそのままにぶつけるとそのままいつもの返事が返ってきた。の身体能力が高いのも、妙に将棋に強いのも、下手すれば寺子屋の先生より教養を身につけているのも、怪我の処置、ひいては薬草、毒草に詳しいのも。
 
 全ては“家庭の事情”で片付けられた。
 最初こそ一つ一つに対して不思議に思っていたが、だんだん其れも面倒くさくなって山形は深く考えることをやめた。


 “出来すぎる”という事を除けば、は非常に優秀な同僚なのだから。



***



 がこの村に来てからはや数年。
 妙な経緯からは養子を取った。名を“甚太”という。頼るべき両親も、親戚も隣人も、狂った殺人鬼によって理不尽に奪われた少年だった。

 は少年が一人でも生きていけるように、との知る全てを教えようとしていた。中でも村人を治療するの姿に感銘を受けたのか『医者になりたい』と言うようになった。

 そう言われたとき、は少し哀しそうに笑っていた。医者になるという事はいずれこの村を出て修行を積まねばならなくなるだろう。にとって初めての子供だ。それが遠からず自分のところを離れていってしまうのが寂しかったのかもしれない。

 文盲に近かった甚太は数年の内に良家の子女にも引けを取らない教養を身につけ、のかつての知り合いだという医者の下で住み込みで修行を積ませてもらえることになった。


「頑張ってこいよ、甚太。お前ならきっと立派な医者になれる」


 そう言っては笑って甚太を送り出した。山形もその妻も、村の連中も、寂しくて目に涙を浮かべていたが、この義理の親子だけはカラカラと笑っていた。



***



 甚太が村を去って数日後、は意を決したように『東京に行ってくる』と出て行った。知り合いの墓参りに行くと言っていたのだが、山形はまさかそれっきりに会えなくなるとは夢にも思っていなかった。


 すっかり寂しくなった駐在所に一通の辞令が届いた。それはに『東京警視庁勤務を命ずる』といった内容のものだった。


────それ以来、がどこでどうしているのか、山形は知らない。時折村に甚太から送られてくる手紙によると、定期的な仕送りは途切れることなく続いているらしい。



***



 歳を取ったせいなのか、月日の流れるのは早く、いつの間にかの居ない生活が当たり前になっていた。
 めっきり人の来なくなった駐在所────そもそもが居た頃が多すぎたのだ────の久方ぶりの訪問者の顔を見て、山形は大きく目を見開いた。


「甚太か……大きくなって分からんかったわ」

「お久しぶりです。山形さん」


 会っていない期間が嘘の様に話がはずんだ。といっても山形の話は誰某の犬が子どもを産んだとか、今年は良い野菜が取れたとか、そんな他愛も無いことだったが。甚太の方はといえば、今年医者の試験に受かったらしく、正式に医師を名乗れるようになったという。「先生」と呼んだら照れくさそうにする、その表情は昔と変わらなかった。話せば話すほど、あの頃の事がどんどんと蘇ってくる────


「……に会うたら、たまには顔見せに来いって伝えてくれんか」


 随分と背も伸びて理知的な面差しになった甚太に、山形はぽつりと呟いた。何でも器用に出来てしまう一方で何かに特別興味を持つことも無かったあの男……今はどうしているのだろうか。

 山形の呟きを拾った甚太は何故か含みのある笑い方をする。


「分かりました、必ず連れてきますよ。……でも山形さんは相当驚くかも」


 いたずらっぽく笑う、その言葉の意味が分かったのは、それからすぐの事だった。


「……お久しぶり、です。山形さん」

「ん?どちら様で……え、えええ!?」