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馬鹿弟子の強い意志を聞き、再び飛天御剣流の修行をつけることになったのはいいが。
この馬鹿弟子は十年余の間にすっかり腕を鈍らせていた。
このまま奥義の伝授などできるはずもないので、まずは徹底的に打ちのめす。
そうして気を失った剣心を見ながら、比古清十郎は“もう一人”の馬鹿弟子のことを考えていた。
剣心や神谷薫達の話を聞く限り死んではいないようだったが、
いまだにあいつは“”と名乗っているらしい。
────馬鹿はいつまでたっても治らないようだ、と清十郎は深くため息を吐いた。
師匠と弟子
“比古清十郎”の名を継いだ時から、一つの場所に長く留まることは少なくなった。
全国を転々としながら、清十郎はその目に留まった人達を救ってきた。
“救う”というのは傲慢かもしれない。飛天の力をもってしても清十郎にできたのは、
せいぜい暴漢や野盗から武器を持たない人々を守ることぐらいである。
野営をすることの方が多かったが、
その日は昨晩からの激しい雷雨を避けて清十郎は海近くの宿に泊まっていた。
数日前から滞在するこの地域は外海に開けた港を擁し、
黒船が浦賀に現れて以来開港を迫られている港の一つだった。
そのせいなのだろうか、街は荒れていた。
清十郎が泊まる宿も客は少なく寂れており
女将の態度もそっけなかった。
長居もしたくなかったので清十郎は嵐が過ぎ去った早朝に宿を出た。
目的もなく海岸沿いを歩いてみれば昨夜の嵐による漂流物が砂浜に多く打ち上げられていた。
「……おい餓鬼。そこで何してんだ」
そんな漂流物の中に混じって、薄汚れた餓鬼が倒れていた。
着物は元の色が分からないほどに汚れている。
泥の色と、どす黒く染まっているのは恐らく血の色だろう。
「ぅ……」
死んでいるのかもしれない、と思ったが生きていたようだ。
清十郎はうつ伏せに倒れた餓鬼を足でひっくり返すとその姿をまじまじと観察した。
汚れてはいるが身にまとう着物は決して安くはない生地を使っていると清十郎にも分かった。
見るからに"訳アリ"だったが“このまま放置するわけにもいかないか”と清十郎は無造作に少年を肩に担ぎあげた。
「餓鬼、その血はお前のものか?」
意識を取り戻したらし肩の上で身じろぎする少年に清十郎は問うた。
少年の着物に染み込んだ血の量は致死量に思えた。
しかし見たところ少年にかすり傷以外の傷はなかった。
「……違います」
「じゃあ何でそんなに血塗れなんだ」
「帯刀と、母上を、殺したから」
感情の見えない口調で少年は淡々と答えた。
その話が本当だとすれば、なんとも物騒な話だ。
────しかし詳しい事情を聴くのは後にしよう。
とにかくこの小汚さを清十郎はどうにかしたかった。
昨晩泊まった宿に戻れば、部屋は空いているというので
とりあえずこの少年がまともに動けるようになるまではここに泊まることにした。
「あれまあ、どうしたんですかその子供は」
「海岸に捨てられていた。野盗にでも襲われたんだろう」
ボロボロの少年を見て、昨晩はそっけなかった女将がやけに甲斐甲斐しく世話を焼いてきた。
「こんな小さい子供になんて酷い!
……ここいらも最近物騒でねえ。
黒船が来て以来、お上は海防のためだとか言って年貢の取り立てを厳しくしたうえに
漁を禁止しちまったんだよ。お蔭で商売あがったりさ。
食うに困って野盗になっちまう人間も多くてねえ」
堰を切ったように愚痴を吐き出し始める女将に少年を任せ、
清十郎はあてがわれた部屋に荷を降ろした。
***
「────ちょっと、お侍さん!
びっくりだよ、あの子。女の子だ」
泥と血にまみれた少年を風呂に入れていた女将が騒々しく廊下を走ってきたかと思えば、予想外のことを叫んできた。
確かに六つか七つ程度の餓鬼だから男女の差を感じさせるような成長はまだ見せていない。
それでも確かにあいつの着物は男物だったはずだ。
「ったく、面倒くせえもんを拾っちまったみたいだな」
小さくぽつりとつぶやいただけだった。
それを少女は耳ざとく拾ったらしい。
膝をついて深く頭を下げると迷いのない声音で礼を述べてきた。
「助けて頂き有難うございました。
あいにくお金を持ち合わせておりませんので、これを足しにして頂けないでしょうか」
そう言って渡してきたのは、海に流されながらもしっかりと握り続けていた刀だった。
鞘から出して見れば、血糊はべっとりと付いているが、よく鍛えられた良い刀である。
「それでお前はこれからどうするつもりなんだ」
「ご迷惑はおかけしません」
無一文なのに、唯一金になるものをあっさり他人に渡そうとする。
今後生きていくつもりはあるのか、と清十郎は問いかけたが、
少女はそれ以上話をするつもりはないようだった。
「女将、もう出るが。宿代はいくらだ」
「何言ってんだい、泊まってもない客からお金は取らないよ」
昨晩不愛想だと思っていた女将は少女に同情したのか随分と態度を軟化させていた。
「そうか、ありがたい。
……おい餓鬼、行くぞ」
「え?」
自分は関係ないと思っていたのか、突然清十郎から声をかけられた少女は
随分と驚いた様子だった。
清十郎は混乱している間に少女を肩に担ぎあげると女将に再度礼を言って宿を出た。
「これ以上助けて頂く謂れはございません。離して下さい!」
ジタバタと手足を動かして騒ぐので清十郎は面倒くさくなって少女の首筋に手刀を入れて黙らせた。
それにしてもこの状況で清十郎が人買いの類だと疑わないとは、よっぽどの“箱入り”だったのだろう。
「ったく、面倒くせえもんを拾っちまったみたいだな」
そう言いながらも清十郎の顔は笑っていた。
この"訳アリ"の少女に清十郎は自分のとっておきを教えるつもりだった。
***
その後、廃れた湊町を出て山中に入ると清十郎は気を失ったままの少女を叩き起こした。
「……いったいどういうおつもりですか」
状況を把握出来ていない少女は、打たれた首筋をさすりながら清十郎を睨んでくる。清十郎は少女を見下ろし、その口角を上げた。
「お前に“生きる理由”をくれてやるよ」
「そんなこと、望んでおりません。どうぞこのまま放っておいてください」
「ごちゃごちゃ五月蝿え。俺様の決定は絶対だ」
そう言って清十郎は少女が渡した刀を振りかぶった。
少女の肩口に斬りかかったが少女は素早く二三歩後ずさってそれを避ける。
悪くない反応だ。やはり武術の心得があるようだった。
清十郎はそのまま真剣で攻撃を続けた。
少女は必死でその攻撃をしのいでいる。
────半刻ほどしたところで、体力が尽きたのか少女の足がもつれて倒れこんだ。
清十郎は刀振りかぶり少女の首筋から髪の毛一本のところでピタリと止めた。
「どうだ、まだ死にたいと思うか」
全身に汗を浮かべ、肩で息をしながら清十郎を見上げる少女に清十郎は問いかけた。
「……生きたい。生きたいです」
大声で泣くようにそう叫んだ少女の瞳には生気が宿っていた。
***
少女を弟子にすることを決めた清十郎は
少女にこれまでのいきさつを聞いた。
なんとも胸糞の悪い話だった。
自分が腹を痛めて産んだ子供を道具の様に利用して、必要なくなったと思えば殺そうとした、と。
しかし少女はそんな母親を恨んでいるという風でもなく、
むしろ手をかけてしまった自分を責め苛んでいるように思えた。
そして少女が名乗る“”という名は身代わりをさせられていた彼女の弟の名だという。
ならば少女自身の名はないのかと清十郎は少女に問いかけた。
「それ以外の名で呼ばれたことはありません」
「なら俺が勝手につけるぞ」
清十郎自身が名づける、と聞いた少女は驚愕の表情を見せた。
思ってもみなかったことらしい。
「“”でどうだ」
思いついた女名を一つ口に出した。
“”と呼ばれた少女はもごもごと「、……」と何度も繰り返したあと
清十郎を見上げて顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。