42
日本行の巨大な汽船。商船が所有するこの船の一室で、と正継は二人、長旅の暇を紛らわすように取り留めもない話を続けていた。
「────それにしても、正継の病が治って本当に良かったよ」
「結局、四年近くかかったけどね。姉上の“社長”ぶりも中々堂に入っていたよ」
正面に座る正継の顔は、以前に比べ生気に満ちている。人を食った様な性格は相変わらずだが、厭世的な眼差しは随分と薄れた様にも思う。
「帯刀のお蔭だよ。商売相手は誰も彼も俺達を食い物にしようとしてたし、あいつが居なかったらどうなってたか」
「はは、帯刀の教育は厳しかったでしょう」
「……思い出すのも恐ろしいぐらいだ」
そう言っては両腕を擦った。この四年間は帯刀と共に商船の代表として諸外国を周っていたが、異国の言葉は勿論の事、経営の事や洋式の立ち居振る舞いなど、様々な事をは彼から文字通り“叩き込まれた”。
「姉上も、よくこんな面倒事を引き受けたものだね」
「そう? お蔭で甚太は独逸の医療を本場で学ぶことが出来たし、悪いことばかりでは無かったけどな」
呆れた目でを見る正継に笑って返すと、正継は納得していないのか眉を諫める。四年前も、この計画を帯刀から聞かされた正継は、最後までそれに応じようとはしなかった。そんな彼を帯刀と半ば無理やり独逸へと連れて行った事を後悔はしていない。
は口角を上げて正継を見る。
「正継には知ってほしかったんだよ。地面を這い蹲ってでも生きる、楽しさをさ」
「……性格悪いね」
「どっちもどっちだと思うよ?」
どちらともなく漏れた笑い声。それにつられてと正継は二人で大笑した。
或る晴れた日のこと
間もなく到着するという案内を聞き、は一人船の甲板へと出た。
潮風が髪を揺らす。四年ぶりの日本の空気は、何だかんだでやはり落ち着く。
この四年間、色々な事があったし、彼らにも色々な事があったらしい。が欧州各国を転々としていたせいなのか、操の手紙は全て独逸の甚太を経由して送られてきた。数か月遅れで届く手紙に、何度肝が冷えた事か。雪代縁の襲撃────薫が死んだという知らせ。
最後の手紙には剣心と薫に子どもが産まれた事が書かれていた。操の興奮が伝わる筆跡を思い出し、は頬を緩ませた。横浜に着いたら、東京まで足を伸ばして神谷道場に行くのも悪くないだろう。
「その後は……どうしようかな」
近づいていく横浜の地を眺めながら、はぽつりと呟いた。
***
着岸すると港のざわめきが船の上まで伝わってきた。家族の帰りを待ちわびる人々の熱気が港には溢れている。
はぼんやりとそれを眺めていた。ふと黒髪ばかりの日本人の中に、目を引く“緋色”を見つけはハッと息を呑む。無意識の内に視線はその周囲を彷徨っていた。──────“彼”が居ない事に少しの落胆と、少しの安堵を覚え、は深く息を吐く。
船から降りたが逡巡していると、後ろから正継が追い立ててきた。その隣で甚太と帯刀は含みのある笑みを浮かべながらを見ている。
「姉上、私達は先に駅に行くから。せっかく病が治ったのに“馬に蹴られて死ぬ”のは御免だからね」
「え? ちょっと待ってよ!」
そう言ってあっという間に行ってしまった正継達に着いていく事も出来ず、はどうしたものかと意味もなく辺りを見回した。────剣心達に会いたかったのは確かだ。けれど、如何せん、気まずい。
「────あ、ホントだ。さんだわ!」
明るい女性の声がしては振り向いた。いつの間にか薫達に見つかってしまったらしい。薫の隣に立つ剣心は、の知る者とは別人かという程に穏やかな表情を浮かべている。しかしこの人込みの中からを見つけてきたのだから、相変わらず目敏く耳敏いようだ。
こうなってはもう逃げることも出来ない。はゆっくりと瞬きをしてから、剣心達に向き合った。
「二人とも元気そうだね、良かった」
「さんこそ。何だか雰囲気も変わったみたい」
薫に言われては首を傾げる。そういう薫こそ、母となってより一層、強く綺麗になった気がする。
「自分では分からないけどな。それより、この子が噂の?」
薫の胸に抱かれる幼子を見て、は目を細めた。剣心そっくりのこの子どもは、沢山の愛情を受けて育ってきたのが分かる。
「ああ、剣路というでござるよ」
そう言って、に抱かせようというのか剣心は薫の腕から剣路を抱き上げた。
しかし剣心は随分と嫌われているようだ。剣路は剣心の手に噛み付いた上、その腕から逃れようと大きく後ろに反り返る。
「うわ、ちょっと危ない!」
が慌てて支えようと手を伸ばすと、剣心はそのままの腕に剣路を渡してきた。戸惑いつつも、落とすわけにもいかないので、は恐る恐る幼子を抱き上げた。
剣路は大きく丸い目でまじまじと見てきたかと思えば、べしべしと楽しそうにの頬を叩いてくる。
「ねーね、ねーね」
「あら、“お姉さん”ですって。分かるのかしら」
薫は不思議そうにと剣路を見比べている。しかしは全くそれどころでは無かった。
「この子めちゃくちゃ力強い。痛いよ、薫さん助けて……」
薫に剣路を返し、ようやくは彼の攻撃から逃れる事が出来た。流石は剣心と薫の子と言うべきか、とんでもない才能を秘めていそうな子どもだ。
幸せそうな笑顔を浮かべる一家を微笑ましく見ていると、後ろから聞き覚えの無い声音で声を掛けられた。
「おー良かった、間に合ったみたいだな!」
「なに言ってんのよ! あんたがいつまでも買い食いなんかしてるから、あたし達まで汽車に乗り遅れちゃったじゃない!」
が振り返ると、そこには懐かしい顔が揃っていた。相変わらずな操、すっかり大人びた弥彦、そして──────蒼紫。
ふと目が合ってすぐには視線を逸らした。正直言ってどんな顔をして会えば良いのか、全く分からなかった。
「わりーわりー。それより見たぜ! そんなガキに見破られるようじゃあ、お前の男装も“潮時”なんじゃねーの?」
「おろ、それではこれからは“”と呼ばねば」
全く悪びれた様子の無い弥彦は、どうやら先程のやり取りを聞いていたらしい。にやにやと笑いながらを見てくる。剣心も便乗してからかいを含んだ表情で笑っている。
しかし二歳にも満たない幼子に見破られたのは事実で、痛いところを突かれたは苦笑した。
「だけどさあ……生まれてこの方、ずっと男の恰好をしてたのに、今更女装だなんて……。たぶん変態趣味のおっさんにしか見えないよ」
「昔、任務で女装をしていた時は特に問題なかったが」
ぼそりと漏れた蒼紫の呟きに、は半笑いの表情のまま固まった。
「、我々は先に駅へ戻っているでござるよ」
「さん、東京に帰ったら赤べこで宴会よ」
「ゆっくりやれよー? 」
「、また後であたしにも話聞かせてよねー!」
が何も言えぬ間に、剣心達はそれぞれ好き勝手なことを言って去っていく。ばたばたと行ってしまって結局残ったのはと蒼紫だけになった。
***
痛い沈黙が続いたあと、先に口を開いたのは蒼紫だった。
「元気にしていたか」
「……それなりにね」
帰国の日程は恐らく甚太が教えていたのだろうが、東京の剣心達だけでなく、京都に住む蒼紫や操まで来るとは、全く思ってもいなかった。
随分と時が空いてしまったからか、の返答はぎこちない。
「────お前が乗る船が賊に襲われたという話を聞いた時は、肝が冷えた」
お互いの近況を少しずつ語り合った後に、溜息と共に漏らされた蒼紫の言葉を聞いて、は思わず噴き出した。
しまった、と思って蒼紫の顔を見ると案の定、笑うようなことかと眉根に皺を寄せている。
「はは、ごめんごめん。……あの時は本当に吃驚したよ。蒼紫、“相楽左之助”って覚えてる?」
は当時の事を思い出して肩を揺らしながら蒼紫を見る。確か彼らは雪代縁に対して共闘もしていた筈だ。
蒼紫が無言で頷いたのではそのまま続ける。
「実はさ、賊に襲われたとき左之助が助けてくれたんだよ。世界一周でもしようってんのか、あいつも欧州間の船に乗っててさ。しかも助けておいて、いきなり俺にまで殴りかかってくるんだよ? そのくせ、まともに当たったら驚いてたし」
笑いながらはその時殴られた頬を触った。大切な商談の前日だったのに全く腫れが引かず、帯刀に烈火の如く怒られたのを思い出す。
────構える必要は無かったのかもしれない。こうして話し出してみれば、四年間の空白を埋める様に、話すことはお互いどんどん湧いてくる。
***
「これから、どうするつもりだ?」
ひとしきり昔話をし終えると、蒼紫が真面目な顔をしてに問いかける。
答えに詰まったは、誤魔化すように懐中時計を取り出した。もうすぐ次の汽車が出る時間だ。質問には答えず、駅へと向かって歩き出す。
「……まずは、東京に行って沖田さんの墓参りかな」
歩きながら、は思いついたことを一つ一つ言っていく。
────椿や般若達の墓に花を供えて、師匠の所に顔を出して、翁には約束を守れなかった事を謝って。
「謝る必要は無いだろう。“約束”とは俺と二人で帰る事だと聞いた」
「そうだけど……葵屋にはちょっと寄っていくだけだし」
あそこはにとって帰るべき場所ではない。操や翁達が、蒼紫と共に築いてきた四年間があるのに、そこに自分が入る余地は無いだろう。そんな思考が嫌になって紛らわすようには歩く足を速める。
「俺は“待っている”と言ったんだが」
蒼紫を置いていく程の速さで歩いていたは、その言葉に足を止めた。の隣にゆっくりと蒼紫が歩いて来る。
「それって志々雄のアジトで闘った時の事? そんなのずっと信じてられる程、能天気な性格じゃないよ」
確かにあの時、『大丈夫だ、待っている』そう蒼紫の口が動いた様にも思った。けれど、それは自分に都合良く解釈しただけなのだと思っていた。
気持ちとは裏腹に、の言葉は棘を帯びていく。蒼紫は何も言わない────
「これからは、出来るならばこれからの人生は、お前の隣で歩みたい」
隣から聞こえた蒼紫の声は、今度は『言葉』になっての耳に届いた。二人とも足を止めたまま、長い長い沈黙が続いた。
それからどれだけ経っただろうか。
──────ゆっくりと二人顔を見合わせ、微かに笑った。
こうしていると、江戸のあの頃に戻ったような気すらしてくる。あれからそれぞれ迂回して、蛇行して、それぞれの道を歩んできて、今こうして隣に立っている。
だからこそ思う。彼となら……蒼紫となら、何だって出来る気がする──────
新たな物語の始まりは
明治十五年
春というにはまだ寒い、
或る晴れた日のこと