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 白べこに剣心達を連れ帰って、翁はすぐに医者を呼ぶよう黒に命じた。
 暫くして黒が連れてきたのは、この街では一番の評判の医者だった。その医者は夜更けに連れ出された事にぶつぶつと文句を言っていたが、意識の戻らない剣心の姿を見てすぐさま治療に取り掛かり始めた。

 その処置は迅速で、弱々しかった剣心の呼吸は少しずつ穏やかになっていった。




そのりを待つ人




 医者とその助手──歳は操と同じぐらいに見える──が澱みなく手を動かし治療をしていく様を、操はただ感心してじっと見つめていた。
 最も傷が酷かった剣心の処置を終え、次に医者は蒼紫の傷の具合を診ていく。


「おや、傷自体は深いけど上手く手当てがされているね。これはご自分で?」

「いや、これは……」


 蒼紫は自身の身体に巻かれた紺の布を見て、そっと手を当てた。その様子を見て、一つの可能性が操の脳裏に浮かんだ。


「もしかしてそれ、がやったの!?」


 思わず声が出ていた。蒼紫の身体に巻かれた深い紺色の布は、今朝方アジトに行く前に見たの忍び装束の色と似ている。やっぱりは蒼紫と帰ろうと本気で思っていたんだと、操は胸が熱くなった。


……? 今“”って言ったか!?」


 つい先程まで静かに治療の補助をしていた少年がいきなり大きな声を出す。操は驚いて少年の顔を見るが、少年はそれ以上に困惑している様子だった。


「甚太君、今は治療中ですよ。集中できないのなら出て行きなさい」

「いえ……申し訳ありませんでした」


 それ以上、少年は一言も発する事は無かった。医者は、操や薫達を含め全員の治療を終えると、大きな欠伸をしながら帰っていった。操は翁と共にそれを見送る。
 その去り際、少年が医者に何かを言って一人だけ白べこに走って戻ってきた。正面から見据えられて操は思わずどきりとする。


「君……、“”って知ってる?」

「知ってるけど……あんたとどういう関係なの?」

「……息子、です」


 操の問いに、少年は少し迷う様なそぶりを見せた後、そう答えた。それを聞いて操は盛大に混乱する。この少年は操と同い年ぐらいだろう。いったいは何歳で子供を産んだというんだ────


「そうか、お主が“あの”甚太君か」


 隣で勝手に納得している翁をジト目で見ると、苦笑しながらから聞いたという“事情”を教えてくれた。つまり甚太はある事件で身寄りが無くなった所をが引き取った子供らしい。


「半年ほど前に僕は医術の勉強の為に村を出ました。それから何度さんに手紙を送っても、返事が来ないんです。お金だけが毎月送られてきて……」


 そう言って甚太は俯く。操は『は元気だよ』と言ってやりたかった。連絡が途絶えたのは恐らくが密偵として働き始めた頃で、ただ単に任務の性質上、近親者には伝えられなかっただけなのだろう。だけど今は──────


は……ある任務に就いていたんだけど、その最後の闘いが終わったのにだけが、帰ってこないの……」


 操は絞り出すように今までにあった事を説明した。甚太は酷く驚いている様に思える。当たり前だ、彼はが密偵をしていた事も、志々雄と闘っていた事も知らなかったのだから。


「────分かりました。ではさんが帰ってきたら僕にも教えてもらえますか」

「な、なんで……? はもう死んでるかもしれないのよ!?」


 操は驚愕の表情で甚太を見た。その顔は特に強がっているようにも思えない。


「大丈夫ですよ。あの人は、そう簡単に死ぬような人じゃありません」


 そう言って甚太は操の手に住所の書かれた紙を持たせた。どうして蒼紫といい、この少年といい、信じることが出来るのだろう────


「今は“此処”に住み込みで修業させて貰ってるんです。それじゃ、よろしくね!」


 小走りに去っていく後姿を見ながら、操は呆けていた。自分と同じぐらいの歳だろうに、もう将来の目標を見定めて歩いているのか。すごいな、と素直に感心していた。


「ほっほっ、よく出来た若者じゃのう」

「……ちょっと爺や、何でそこであたしを見るのよ」

「なに、操は相変わらず“ぷりてぃ”じゃと思うての」


 にやにやしながら此方を見てくる翁に、意味が分からないと操はため息を吐きながら、比叡山の方を見遣った。
 本当に、は生きているんだろうか──────



***



 気が付けば、は知らない屋敷の一室に居た。
 しかしどんなに記憶を探っても、アジトを脱出し斎藤と会った後にどうやって山を下りたのか全く覚えがない。

 するり、と障子が開いて部屋に入ってきた人物を見ると、その女は慌てた顔でが声を掛ける間もなく出て行ってしまった。が呆気に取られていると、再び足音がして男が一人入ってきた。
 その人物の顔を見て、は言葉を失う。


「た……帯刀……?」


 の驚愕しきった表情を見て、男は微かに笑う。


「まるで幽霊でも見たかの様な顔をなさる。“貴方”とは以前何度かお会いした事がある筈ですよ」


 そう言われてはハッとした。そうだ“帯刀”は自身が殺したのだ。────心を落ち着けて考えれば、自ずと答えは見えてきた。


「帯刀の……ご子息ですか」

「ええ。もっとも、家名は変わっていないので私も“帯刀”には違いありませんが。お久しぶりに御座います、“様”」


 いつもとは違う響きで呼ばれた“己の名前”には苦笑する。あの頃のは“弟の身代わり”として外部の人間に会っていた。目の前の彼もその一人だ。
 師匠に“”という名を貰った後も“”と名乗り続けたのは、“かりもの”の名を自分の物にしたかったからだ。
────馬鹿馬鹿しい。結局、己は己でどの名を付けていたところで変わりはしないのだ。


「その刀……貴方が持たれていたのですね」


 そう言われて、は帯刀の視線の先を追う。そこにはが着ていた忍び装束と刀が置かれていた。


「申し訳ない。これは俺が持っていて良いものでは無かったのに。……ずっと、帯刀家の方にお返ししたいと思っていました」

「それは貴方がお持ちください。私は武道はからきしなのです。そのような者が持っていては、それこそ宝の持ち腐れですから」


 剣桜の彫りが施されたこの刀は、帯刀家の家宝だと聞いていた。差し出した刀を帯刀は受け取ろうとしない。は息を吐いて腕を下ろした。二十年近くずっと願っていた事だったのに、終わってみれば何とも呆気ないものだ。


「そう、ですか。あの……正継は何処に? 彼は無事なのでしょうか」

「……本当に、何も覚えておられないのですね。気を失った貴方の為に折れた足を引き摺って山を下り、助けを呼ばれたのは正継様です。治療を受け、今は別室で眠っていらっしゃいます」


 帯刀は淡々とに告げる。その内容には酷く驚いた。幼い頃、あんなに体の弱かった彼がそこまで丈夫になっていたとは。


「凄いですね。本当に身体が丈夫になったんだ」


 は同意を求める様に帯刀を見たが、帯刀は押し黙ったまま視線を逸らしてしまった。何か気に障ることを言っただろうかとは焦るが、かといって何と声を掛けたら良いのかも分からない。

 どうしようかとが考えていた所で、は帯刀の行動に大きく目を見開いた。────土下座したのだ、に向かって。


「お願いが御座います」

「な、なんですか? 兎に角、頭を上げてください! そんな事をされなくても、俺は貴方に一生を賭して償わなければならないと思っているんです」


 は慌てて帯刀を止めた。己は彼に頭を下げられるような立場ではない。親の仇、と詰られ斬られたとて、文句など言えないのだから。
 顔を上げた帯刀は、強い意志の籠った目でを見据えた。


「……その罪悪感、有難く利用させて頂きましょう」


────────貴方には、正継様の身代わりをして頂きたいのです。



***



 剣心が初めて目を覚ましたのは、あの決闘から三日目の事だった。
 が居ない事を知った剣心は、起き上がる事すら出来ない身体を無理矢理動かそうとした。東京から来た“高荷恵”という女医は、それを見るや『何考えてるの!』と怒鳴るし、薫はぼろぼろ泣いて止めようとするしで、それはもう大変な騒ぎになった。


「緋村君、比叡山には“黒”と“白”を遣って周辺を探させた。しかし“何も”見つからんかったそうじゃ」


 今にも起き上がろうとする剣心に翁が言った情報は、の生死を示すものでは無かった。しかし重傷の自分が無理に動いた所で何もできないと悟ったのか、剣心はそれ以上の事を口には出さなくなった。
 剣心がどの様にその感情に決着をつけたのかは分からないが、今では薫の話に穏やかに相槌を打ち、操の冗談には僅かに笑うようになった。


 いつまでも沈んでいても誰も喜ばないと、操達は間借りしている白べこの一階で毎日毎日宴会を開いていた。皆、嫌な事を洗い流すように酒を呑み、乱痴気騒ぎを繰り返した。

 そうしてが帰ってこないまま、一週間が過ぎた。
──────皆がべろんべろんに酔い始めていたお昼過ぎ、“あの時”の少年がやってきた。

 名前は甚太と言ったか、あっという間に酔っ払い達に絡まれてあたふたしている彼を操が助け出すと、甚太は固い表情で皆を集めて欲しいと言う。

 嫌な予感がして、操は急いで酔っ払い達を剣心の居る部屋へと追い立てた。
 少しして、冴に案内されて二階に上がって来たのは甚太一人では無かった。見知らぬ男に操達は怪訝な顔をしながら、その話を聞いた。


「私、帯刀と申します。本日は様の事で皆さまにお伝えしたい事があり参りました。まず初めに言っておきますが────様は生きておられます」


 甚太の隣に座った、帯刀という男の言葉に操達は息を呑んだ。待ちに待っていた情報だった。────しかし、続けられた言葉は操の望んでいたものでは無かった。


「お身体は大分快復されましたが、今は出発の準備でお忙しく此方まで来る時間は御座いませんでした」

「どういう事……は“ここ”に帰ってくるんじゃないの!?」


 帯刀の口ぶりでは、まるではどこかへ行ってしまうみたいだ。操は詰め寄る様な口調で帯刀に問いかけた。


様には、商船の代表として欧州に渡って頂く事になりました。明日には神戸から船が出ます」


 それから淡々と告げられた話に操達は驚愕した。
 商船といえば操でも名前を知っている大企業だ。その代表がの双子の弟で、その弟はいつ爆発するか分からない爆弾を身体の中に抱えている状態だという。その病を治す光明が“独逸”にあり、何年かかるかも分からない治療による代表の空席を誤魔化す為に、をその弟の“身代わり”にしようとしているらしい。

 全く納得がいかないのは操だけでは無かった。剣心が怒りを秘めた声音で帯刀を責める。


がかつて弟の身代わりをさせられていた事をどれ程嫌がっていたか。またその様な事をにさせるつもりでござるか」

様はこの件について、快諾なさいましたよ」


 それだけ言って、自分も忙しいのだと帯刀は憤慨する操達を置いて白べこを去っていた。 何故か一人残っている甚太に『あんたも行かなくていいの』と操は投げやりに聞いた。


「あの……四乃森蒼紫という方は此方にいらっしゃいますか。さんから伝言を預かってるんです」


 操の問いにそう答えて、甚太は遠慮がちに見回した。しかし蒼紫はこの場には居なかった。自由に歩けるくらいに怪我が回復してからは、白べこには殆ど居つかなくなっていたのだ。


「蒼紫はおそらくいつもの禅寺じゃよ」

「……分かった、爺や行ってくるね!」


 翁から蒼紫の居場所を聞いた操は、甚太の腕を掴み白べこを出た。甚太の足は吃驚するぐらいに遅く、半ば引きずる様に操は蒼紫が居るという禅寺へと連れて行った。



***



 本堂の中で禅を組んでいる蒼紫を見つけ、操はずんずんと入ってい行くと、その正面に甚太を引っ張り出した。操の行動に蒼紫も甚太も驚いている様で二人とも言葉を失っている。


「はい、この方が蒼紫様よ! それで、は何て言ってたの?」


 操に促されて、呆気に取られていた甚太は姿勢を正して蒼紫の前に座り、帯刀が言っていた話を順序立てて蒼紫に説明した。“がもう帰ってこないかもしれない”と聞いた時、蒼紫は微かに動揺したかに見えたが、黙したまま最後まで甚太の話を聞いていた。


「それで……さんは貴方に『約束守れなくてごめん』と伝えてほしい、と」


 それを聞いた蒼紫は、僅かに目を見開いた後、目を閉じて『そうか……』とだけ呟いた。操は納得がいかず、肩をつかみ蒼紫の身体を揺さぶった。


「ねえ蒼紫様、あたしと一緒にの所に行きましょう! 今ならまだ止められるかもしれない!!」

「……その必要は無い」


 操の言葉は呆気なく突き返された。しかし操とて此処で引き下がる事は出来なかった。


「何で……。蒼紫様は、に戻ってきてほしくないの……?」


 言いながら操は泣き出しそうだった。
 もう蒼紫が何を考えているのか分からない────

 甚太に連れられて操は本堂を出た。こうなったらと自分だけでも行こうとする操を甚太は引き留める。掴まれた腕を振り払って操は叫んだ。


「何で止めるのよ! あたしが行ってを連れ戻さないと。二人が会えないままなんておかしいよ!」

「……君、あの蒼紫って人の事が好きなんでしょう? 無理することないよ。さんには皆さんが心配してたって事だけ伝えておくから」


 心の内を見透かされたような気がして動揺する操に、甚太は優しい声音で語り掛ける。


「これでも医者の卵だから、人の気持ちには敏感なんだ。さんも“身代わり”を嫌がってる訳ではないんだけど、やっぱり皆さんの事、すごく気にかかってるみたいだから。これからも皆さんの近況とか教えてくれないかな? もちろん嫌じゃなかったらだけど」


 甚太の言葉に操は小さく頷いて、出て行く甚太をそのまま見送った。
 陽が傾き始めた頃、操は蒼紫と共に白べこへと戻った。


──────それから一か月、
 剣心達はそれぞれの形で志々雄との闘いに決着をつけ、東京へと帰っていった。