屯所に戻ってきた那津は、沖田と鉄之助を探し屯所中を歩き回っていた。
 浪士の死体が残されていたあの路地で、いったい何が起こったのか────



この時の理



 一つ一つの部屋を覗き込みながら屯所の奥へと続く廊下を歩いていると、ふと市村辰之助の声が聞こえた。目を遣るとそこには辰之助にしがみつく鉄之助の姿がある。いったい如何したというのか────鉄之助に聞こうと踏み出した足は、数歩で止まってしまった。


(……私が行って何が出来る)


────彼は鉄之助で、“”じゃない。彼を慰めるのは辰之助で、私ではない。私の弟は、“この世”にはもう、居ない。

 咄嗟に二人から目を逸らす。
 胸の奥に沈む澱を払うように目を閉じれば、脳裏にこびりついたあの日の光景が鮮明に甦る。炎に包まれた城、そこかしこから聞こえる啜り泣きの声の中、母に連れられ、弟は逝ってしまった────
 痛むこめかみを抑えながらは道場へと向かった。



***



 血気盛んな新選組にしては珍しく、道場は凛とした静けさで満たされていた。は一礼をして道場へと入り、壁に掛けられた木刀を手に取った。
 父──比古清十郎──から教わった方法だ。どうしようもなく自分が嫌になった時は、自分の存在をかき消してしまうぐらいに何かに打ち込めばいい。


────百、二百、三百、四百、五百、千……
 幾度となく木刀を振り上げては、振り下ろす。全身がキリキリと悲鳴を上げ始めていたが、それを無視しては稽古を続ける。


さん」


 突然掛けられた声に、の肩がびくりと跳ね上がった。乱れる息を押さえつけて振り向けば、そこには沖田総司が立っている。


「……邪魔、しないで下さい」

「もう止められた方が良いですよ。こんな無茶な稽古をして、これ以上やれば貴方の身体が壊れてしまいます。何か、あったんですか?」


 素振りの効果は思っていた以上にあったらしい。こうして声を掛けられるまで、この男──沖田の存在に気が付かなかったとは。


「この程度の稽古で駄目になる程、柔な鍛え方はしておりません。沖田さんこそ、血の匂いを染みつけて、殺気を撒き散らして。いったい如何されたのですか?」


 “貴方も聞かれたくない事があるのだから、これ以上私に関わるな”
────そんな意味を込めては沖田を挑発した。しかし沖田は僅かな動揺すらも見せることは無い。
 見透かされるような視線を遮る様に、沖田へと木刀を向けた。


さ──」


 沖田の不意を突く様に、突として袈裟懸けに斬りかかる。
 しかしの木刀は、沖田の肩口を僅かに掠っただけだった。沖田はの無礼な行動に怒るそぶりも見せず、ただ静かにを見る。


「人の稽古を盗み見る程お暇なんでしたら、ちょっとは付き合ってくださいよ!」


 壁に掛けられた木刀を取り、沖田へと乱暴に投げつけた。
 沖田は危なげなくそれを受け取る。徐々に暗く深く凍てついていく沖田の瞳を見て、は全身がぞわぞわと奮い立つのを感じた。


 の前に木刀を構えた沖田は、一分の隙すらも見せない。はわざと強く踏み込み沖田の胴を突く。防がれる事は承知の上で、すぐさま音もなく背後に回り体勢を崩した沖田の首を狙った。
────避けられる、それが分かった瞬間に感じた強烈な殺気。は咄嗟に宙を舞い、沖田から距離を取る為に道場の中央へと戻った。
 見れば、沖田の“突き”が空を裂いている。あのまま木刀で受けていたならば、確実に木刀ごとの腹を突き破っていただろう威力だった。

 振り返った沖田に対して、は正眼の構えを取る。
 再び繰り出してきた沖田の突きは、の喉元を狙っていた。それを寸での所で避けると同時に、沖田の突きだした木刀に自身の刀身を滑らせ、そのまま沖田の脳天を狙った。
 しかし一寸手前まで迫ったの刀を、沖田は力任せに横に薙ぐ。その勢いを殺すことが出来なかったの身体は、そのまま壁へと叩きつけられた。


「もう、止めましょう。さん」

「……言ったでしょう。この程度で終わる程、柔な鍛え方はしていないと!」


 そう叫ぶように言っては沖田へと向かっていった。互いの木刀が削れる程に、幾度も強く切り結ぶ。徐々に手の感覚が無くなっていくのを感じながら、はより一層強く足を踏み込んだ。

────額を一筋の汗が流れ落ちる。目を細めた、その僅かな隙に沖田はの木刀は弾き飛ばした。その勢いのまま肩を掴んで引き倒し、逃れようと暴れるの足を己の身体で押さえつける。沖田は腕の下で尚も抵抗を続けるの首筋に、静かに木刀を当てた。


「……真剣なら、私は今死んでいましたね」


 ぽつりと呟いたは全身の力を抜き、張りつめていた息を静かに吐き出した。
 沖田が退いた後も起き上がろうとはせず、ぼんやりと天井を仰ぎ見る。


さんの流派は木刀には向いてないのでしょう? 真剣ならきっと、私の方が先に死んでいましたよ」


 そう言って差し伸べて来た沖田の手を振り払い、は自らの力で上体を起こした。
 そのまま立ち上がる事なく、俯いたまま沖田の手を弾いた自身の手をじっと見つめた。何度も肉刺ができては潰れ、石の様に硬くなった掌────


「それが言い訳になりますか? ……たとえどんな状態であっても戦える力が無ければ、意味が無い」


 口をついて出て来た言葉は、自らにずっと言い聞かせて来た言葉だった。────そうまでして守りたい人など居ない。己が死んだとて、悲しむ人も居ないというのに。
 自嘲の笑みを漏らすに、沖田は何も言わずその隣に座る。

 は己の動揺を誤魔化すように話題を変えた。


「そういえば、鉄之助君と何があったんですか。泣いてましたよ、彼」


 の問いに、珍しく沖田は迷う様な素振りを見せた。膝の前で組んでいた手をじっと見つめ、何かを拭うように両手をこすり合わせた。沈黙の後、沖田はぽつりぽつりと語り始める。


さん達と別れた後、あの浪士達の一人を殺しました。私が“新選組の沖田総司”と知れたというだけで。……鉄之助君に言われちゃいました。あの人達だって“人の子”なのに、って」

「貴方は、それを後悔しているんですか?」


 隣に座る沖田は、どこか遠くを見ている。その視線の先は────土方の居室か。


「……いいえ。私は、鬼の子ですから」

「何ふざけた事を言っているんですか。貴方は正真正銘の“人間”でしょうに」


 予想もしていなかった言葉だったのだろうか、沖田は怪訝な顔でを見た。としては、適当な慰めを言ったつもりはない。至極当然の事、といった調子で尚も続ける。


「人間は自分勝手で残酷なものです。皆、素知らぬ顔をしてそうやって生きています。だから、貴方だって好きなようにやれば良いんですよ」


 の言葉に沖田は僅かに目を見開いた後、正しく“にっこり”という表現がふさわしい笑みを浮かべながらを見た。


「そうですね……という事はさんも“人間”なんですから、『何の為に』とか『誰の為に』とか難しいことを考えず、好きなようにやれば良いってことですよね?」


 は自身の顔にカッと熱が集まるのを感じた。己の言葉を利用された事に苛立ちつつも、頑なになっていた自身の心が氷解していくような感覚に驚きを隠す事ができない。


「……揚げ足取りですか。性格悪いですね」


 棘を含んだ言葉をぶつけながらは矢庭に立ち上がった。元あった場所に木刀を収めると、引き留めようとする沖田を振り払って慌ただしく道場を後にする。



***



「おいおい、どうした? 顔、真っ赤じゃねえか」

「稽古のせいですから、問題ありません!」


 廊下ですれ違った原田のからかう声に乱雑に返答し、裸足のまま庭へと降りて井戸の水を頭から被った。ずっと身体に纏わりついていたモノが汗と共に流れ落ちていく。



 稽古で疲れたせいだろうか、その日の夜はこの時代に来てから初めて、ぐっすりと眠ることができた。