22
あの日も今日と同じぐらい酷い雨が降っていた。
「助けて」
「母上、帯刀、どうしてっ……」
そこには首のないの乳母の死体が転がっていた。
「あの子の体もずいぶん良くなりました。
もうお前は必要ないのですよ。
不吉な双子をここまで生かしておいたのは“”の身代わりにする為なのですから」
外は土砂降りで叩きつけるような雨音が響いていたのに、
『もうお前は必要ない』という言葉だけはの耳にはっきりと聞こえた。
それだけを告げると母は帯刀を残して去っていった。
そしてその場にはと帯刀だけになった。の世話役は既に帯刀によって全員殺されていた。
「申し訳ございませぬ。
若様として七年間表に出ていらっしゃった貴方様を、今更姫として世に出す訳にはゆかぬのです。
貴方様の存在を知るものは全員殺しました。
全て事が成った後には私も腹を切るつもりにございます」
帯刀は冷たい声でそうに告げた。
帯刀はが物心ついたときから、武術の全てと武家に必要な教養を教えてくれた。
身体の弱い弟に代わって、臣下や他藩の者の前で武芸を見事に披露した後には
その無骨な手で頭を撫でてくれた。
────その手が、今を殺そうとしている。
「だ、だれか……!! 助けてくれ、誰か!!」
恐怖で掠れた声では必死で叫んだ。
しかし誰もやって来て、帯刀を止めてくれる者は居なかった。
──── 一瞬、は目の前が真っ暗になった。
そして生暖かい液体を全身に浴びて我を取り戻した。
を斬ろうとした帯刀の刀を返して反対に帯刀の首に突き刺したのだ。
それは帯刀に教わった技だった。
ぐらりと倒れた帯刀の身体からは刀を引き抜いた。
帯刀は何かを言おうと口を動かしていたが、音にはならず血が余計に溢れ出ただけだった。
は刀を持って鍛えた脚力で母親を追いかけた。
の存在に気がついた母は大きく目を見開き何かを言いかけたが、
それが言葉を紡ぐ前に、は母親の首を刎ねていた。
もう何も、聞きたくなかった。
雨で池のようになった庭に、母の首がぐしゃりと沈んだ。
***
「どうして……無関係の人間を殺すんだ」
は湧き上がる怒りを抑えて静かに目の前の男に問うた。
男は何がおかしいのか薄く哂っている。
「大義のためだ、仕方あるまい」
「関係のない女を……殺すことが
……お前達の、“大義”なのか……?」
ニヤニヤと哂うのをやめない男には吐き気がした。
毒が全身に回り始めているのか、手も足ももはや思うようには動かせなかったが
それでもこの男だけは絶対に殺さなければならないと強く思った。
「お前の様な餓鬼には分からぬわ」
「本気でこの国から……異人を排除できると思っているのなら、
随分とお気楽な、頭だな。
もはや、国を開いて異国の文化を吸収し、強くなるしか、ないんだ」
「知ったような口を利くな!!!」
の言葉に激昂した男は怒りに任せてに刃を振り下ろしてきた。
感覚を失っていた右肩に激痛が走る。
……壮絶な痛みと共に指先に感覚が戻ってきた。
男はを押し倒すと滅多刺しにしようと短刀を振り上げたが、
それよりも速く、は袖口に仕込んだ苦無を男の首筋に突き刺した。
────男は絶命した。
男の身体はそのままの上に倒れてきたが、
にはそれを押しのける力は残っていなかった。
重い、クソ……
もう筋一本も動かせない。
毒のせいなのか、血を失いすぎたせいなのか
頭もぼーっとしてきた。
「あ、あおし……蒼紫っ……」
どうしてこんな時に大嫌いなあいつの顔が浮かぶのか。
誰だって良い、死にたくない、助けてくれ。
は途切れそうになる意識の中で唯ひたすら蒼紫の名前を呼んだ。
***
フ、と身体が軽くなった。
絶命した男の身体が除かれていただけではなかった。
いつの間にかの身体は持ち上げられ室内へと運ばれていた。
布団の上に寝かされたは緊張の糸が切れたのかそのまま意識を失ってしまった。
────、……
何処からか自分の名前を呼ぶ声がする。
このまま眠っていたい、という身体の訴えを押さえつけて
はゆっくりと目を開けた。
「大丈夫か、」
の顔を覗き込んでいたのは蒼紫だった。
“大丈夫だ、それより護衛の任務はどうした”
そう言い返そうとしたのにには口を開ける力も残っていなかった。
精一杯の抗議の意味を籠めては蒼紫を睨んでいると、
蒼紫が液体をの口内に流し入れようとしてきた。
しかし口を開ける気力もなかったはただ唇を濡らしただけで
薬らしきそれを受け入れる事が出来なかった。
は心の中で嗤った。
"ここで死ぬのか"、そう思うと身体からどんどん熱が消えていくのが分かった。
は諦めたように瞳を閉じた。
────次の瞬間、唇への不思議な感触と共に口内に生温い液体が入ってきた。
驚いて目を開けば、目の前に蒼紫の顔があった。
は混乱で咽そうになったが、
蒼紫が口を手で押さえてきたので必死でその薬を飲み下した。
不仲である蒼紫にまさか助けられるとは思っていた無かったため
は蒼紫の行動に酷く動揺した。
それが伝わったのか蒼紫は口元についた薬を袖で拭うと言った。
「お前は御庭番の仲間なんだから、助けるのは当たり前だろう。」
────至極当然、という様子で蒼紫が言うのがなんだか可笑しくて、
肩を揺らして笑ってしまったのを後悔したのは、
肩の傷がぱっくり開いてその痛みで悶絶した後だった。
それを蒼紫が横で心底馬鹿にした目で見ていたが、
が今までのようにそれに反発することはなかった。
『お前は御庭番の仲間だ』そう蒼紫に言われた事が、の心をじんわりと温かくしていた。