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 夜が明ける前には自然と目が覚めていた。朝日が出ると同時に志々雄のアジトへと出発することになっている。は軽く伸びをして体をほぐすと、身に着けていた警官の洋装を全て外していった。

 代わりに葵屋で借りた御庭番衆の忍び装束を身にまとう。かつて自身が身に着けていたものと同じ仕様で、首から上以外は全て布に覆われている。警官の洋装も動きやすいが、暗器等を仕込むにはやはりこちらの方が都合が良かった。

 着替えを終えたは執務室として割り当てられた部屋へと向かった。机上に残る自身の荷物を片づけていく。膨大な資料は、引き継ぐ者が分かりやすいように整理し、添え書きをする。
────以前からずっと考えていた事だった。これからの闘いがどの様な結果になったとしても、はもう、此処に戻ってくることは無いだろう。



世の剣



 朝日が昇ると同時に、斎藤と共に葵屋へと向かう。着いた頃には既に剣心達は店先に出てきていた。薫達に見送られる剣心の横で、は翁にある“懸念”を伝えた。


「京都大火の際の御庭番衆の活躍は既に志々雄一派に知られています。俺達が不在になる隙をついて葵屋を襲撃してくる可能性は十分あり得ます」

「うむ……の言う通りじゃ」

「そして絶対とは言い切れませんが……志々雄側の主力、つまり“十本刀”のうちの数人が葵屋の方に来るかもしれません」


 これは確信のある話ではない。“決闘”と言った手前、志々雄ならば絶対に十本刀全員を剣心達にぶつけてくるだろう。しかしあの方治ならば──あいつの思考はによく似ている──、彼は“正々堂々”では無くあくまで合理的に、志々雄の勝利に有効な一手を打ってくるはずだ。方治の姦策が志々雄に受け入れられるか否か……。の考えを聞いた翁は神妙に頷く。


「一応、師匠──比古清十郎──に助けは求めていますが……本当に来てくれるかどうかは分かりません。皆さんお気を付けて」

「相分かった。万全の準備をしておこう」


 不安は残る。それでも自分の力だけで全てが何とかなるわけではないことをは京都大火の闘いで痛感していた。もちろん全力は尽くす。……その上で、彼らや師匠のことを信じようとは心を決めて葵屋を後にした。



***



 アジトへは一度行ったことのあるが先導して向かった。目指すは比叡山、山の麓まで差し掛かり京都からの街道が尽きると、脇に逸れた人目につかない所に人一人通れる程度の細い道が続いている。葵屋を出て数時間経つ頃には、六つに連なる祠が見えてきた。


「ようこそお待ちしておりました。中は奥に進むに連れて迷路のようになっております。迷わぬ様、これより先は不肖この私駒形由美が案内致します」


 アジトの入り口に立っていたのは、常に志々雄に侍っていた女だった。確かに中は迷宮の様になっている。単なる案内役だろうに、何故かの隣では左之助が警戒を強くしていた。


「……女を使って油断を誘う。よくある手だ、気をつけろよ」

「そんな浅はかな手に掛かるのはせいぜいお前だけだ」

「志々雄はそこまで姑息ではござらんよ」

「トリ頭君はあんまり難しい事を考えない方が良いと思うよ」


 左之助の考えをら三人は一蹴し、由美の後に続いて迷宮へと入っていく。数々の分岐を迷うことなく進み、ようやく一つ目の部屋にたどり着いた。


「不動明王像、でござるか」

「仰々しい。十本刀には坊主でもいるのか?」

「“明王の安慈”ですね。誰が闘いますか」


 由美が開けた扉の奥には、巨大な不動明王像が鎮座していた。恐らく部屋の主は“明王の安慈”、それは志々雄側が一番手に十本刀三指の実力者を出してきたということだ。


「あいつには、聞きてぇ事がある。一番手は俺がもらうぜ!!」


 名乗り出たのは左之助だった。その気迫に「何か因縁でもあるのか」と剣心に問えば、彼は東京から京都への道中で左之助に“二重の極み”という技を教えた人物だという。


「……俺だって明治政府は大嫌えだし、許す気もしねェ。お前みてーに今でも時々ブッ壊したくなる気持ちにもなる。けどな、その明治の中で懸命に生きている連中がちゃんといて、そんな連中のために未来を信じて闘ってる奴だっているんだよ!!」


 師匠と弟子ならば結果は歴然。左之助が繰り出す“二重の極み”を安慈は全て見切り、それ以上の技と力で左之助を嬲る。


「時代に絶望するのはてめえの勝手だが、安慈……まだ希望を持っているモンがいる限り、“生殺与奪”なんてふるいはこの俺が許さねェ。────俺は負けねえ、絶対に負けられねェ!!」


 それでも左之助は引かなかった。精神が肉体を凌駕し、狂った様に拳を振るう安慈に対しても、それを上回る強い“想い”で闘いに打ち勝ったのだ。


「……今の闘いで骨がイカれてるな。お前はここで引き返せ」


 闘いが終わった途端に倒れこむ左之助の手当てを行ったは、“足手まとい”だと告げる。これまでの様に左之助を下に見るつもりは無かったが、二重の極みの連発に加え“三重の極み”まで発した右手をこれ以上酷使すれば、確実に格闘家としての寿命を縮めることになるだろう。


「冗談じゃねえ! ここまで来て志々雄の顔も拝まずに帰れるかってんだ」

「……全く。右手を貸せ。サラシで固定するから無闇に動かすなよ」


 の言葉に「おうよ!」と言って左之助は拳を握りしめた。案の定、悶絶している。……馬鹿なのだろうか。先程の闘いを見て考えを改めただったが、どうやら必要なかったようだ。

 が手当てを終えると、左之助は安慈の元へと向かう。


「安慈……」

「優しさで……救える程、人間は甘くない」

「……そんな事、十年前に承知してるさ。だがよ……、その位牌の子供達は、死ぬその直前まであんたの優しさに救われていたはずだぜ」


 左之助の言葉が届いたのかは分からない。安慈は俯いたまま沈黙を続けた。たちは次の決闘へと向かう。


「……今ならまだ遅くないかもしれない。急いで引き返せ」


 先へと向かおうとする達を止めたのは安慈の声だった。安慈は宗次郎と宇水、方治以外の十本刀は全員葵屋へと向かった事を告げる。予想はしていた事だったが、葵屋に残った者達の顔が浮かび、の背中に嫌な汗が伝う。


「志々雄……!」

「剣心、これは恐らく方治の策だ」

「彼の言う通りよ。それに引き返そうったって私はアジトの“行き道”しか知らないわ。戻ったとしても道に迷って全員お陀仏よ」


 激昂する左之助に迫られても由美は不敵に笑う。恐らく本当の事なのだろう。は帰り道を知っているが、心は既に決まっていた。


「先へ進もう、剣心」

「…ああ……葵屋の皆を、師匠を、信じよう」



***



 逸る気持ちで次の決闘の場所へと達は向かった。案内された“叫喚乃間”の扉を剣心は勢い其のままに蹴り倒す。現れたのは目の文様で埋め尽くされた何とも悪趣味な部屋だった。


「いらっしゃい。ククク……四人ね。おや何時ぞやの“彼女”も居るじゃないか」

「御託はいい。そこを退くか否か、早く決めるでござる」

「剣心……」


 やはり焦っているのか、宇水に対しすぐさま抜刀の構えに入る剣心をは諫めようとする。しかしそれよりも早く斎藤の拳が剣心の顔面に入っていた。


「怒るのは大いに結構だが、焦るな阿呆。焦りは余計な緊張を生み、実力を半減させる」

「クククク、さあ誰が私と闘う?」


 宇水は挑発するようにの方を見る。相対するのは三度目だが何度見ても気持ちが悪い。大した実力もないのに、必死で虚勢を張り薄っぺらい尊厳を守ろうとする。此処までを苛つかせる人間もそうは居ないだろう。


「斎藤さん、ここは俺が」

、お前秋月屋でこいつを“わざと”取り逃がしただろう。ダラダラ闘われると迷惑だ。こいつは俺が相手する」


 バレていたのか、とは内心冷や汗をかいた。確かにこの苛立つ気持ちのまま闘っていれば、宇水を嬲り殺しにしていたかもしれない。


「言い訳は後で聞く。行け」


 斎藤に促された剣心は宇水の横を通り、奥へと進む。反抗する由美を左之助が小脇に抱え、達は次の決戦の間へと走った。