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 “かぎろひ”

 強い光が地面を照らすとき、ゆらゆらとした空気が地面からのぼるという。“あるのかないのか分からない、ふとすれば直ぐに消えてしまう存在”、そんな記述を何かの書物で見た時、妙に親近感が湧いたことを、今でも覚えている。







 パチパチパチ、と間の抜けた拍手の音が聞こえた。が顔を上げ音の方向を振り向くと、そこには一人の青年が立っていた。


「久しぶりだね、姉上。見事な戦いぶりだったよ」

「……お褒めの言葉をどうも、卿」


 表面上は平静を装っていたが、内心は酷く動揺していた。いや、このアジトを偵察した時、既に確信に近いものは持っていたのだ。しかしは目の前の青年の存在を、俄かには受け入れられなかった。


(こんな歪んだ嗤い方をするようになったのか……)

「そんな怖い顔しないでよ。ふふ、私は姉上にまた会えて嬉しいのに」


 その言葉に、はぞくりと寒気がした。自分と会えて嬉しいだなんて、そんな事はあり得ないと自身がよく分かっている。彼は自分を恨んでいる。は彼の母親を殺した張本人だ。


「せっかくだから少し話さない? 丁度いい部屋があるんだ、案内するよ」

「だけど……」


 そこまで言っては言い淀んだ。蒼紫の手当てはまだ万全とは言えない。剣心達の事だって気にかかる。それでもこの機会を逸してしまえば、彼と話をすることは二度とないのだろう。
────幾ばくかの逡巡の末、は一番身勝手な選択をした。


「……分かった、行くよ」

「ふふ、じゃあ行こうか」


 は案内に従って部屋の奥へと歩いた。蒼紫からの視線を感じたが、それに応える事は出来ず、俯いたまま卿の背中を追う。

 不意にの頭に鋭い痛みが走った。何かをぶつけられたのだと分かって反射的には振り向く。投げられたのは辞書の様な分厚い本で、それを投げた張本人──四乃森蒼紫──は苦しそうに肩で息をしていた。馬鹿、痛い。殺す気か、はそう言おうとした。しかし、今は身体を動かすだけでも辛いはずなのに、を見る蒼紫の目が驚くほど優しくて、は言葉を失った。


────“大丈夫だ、待っている”


 御庭番の訓練で“読唇術”は習得している。しかし蒼紫の唇が“そう”動いたと思ったのは、の都合の良い解釈かもしれない。ただそれは、の背中を強く押してくれた。




***




「どう? 良い眺めでしょう」


 案内に従い細い通路を進んだ。幾らかの階段を上ったその先にあったのは巨大な窓のある部屋だった。促され、窓の傍にある椅子に腰を掛けたは目を見開いた。


「これは……」


 眼下には絶壁に囲まれた闘技場があった。おそらくこの部屋はその崖の上部を切り出して作ったのだろう。まだ剣心達は瀬田宗次郎と闘っているのだろうか、闘技場には誰もいない。


「志々雄さん達はまだ来ていないみたいだね」


 卿は机を挟んだ向かい側に座り、窓の向こうの様子を見てつまらなそうに息を吐いた。そして緩慢な動作での方を向いた彼は不気味な笑みを浮かべていた。


「あなたは、志々雄真実とどういう関係なんだ」

「ちょっとしたパトロンさ。志々雄さんなら少しはこの国を“面白く”してくれるんじゃないかなって思ってね」


 は眉根を寄せた。志々雄が統治していた新月村、村民が互いに互いを疑い、貶める、あの村のような未来を“面白い”と彼は評するのか。


「……意外だな。あなたが“弱肉強食”の世を望んでいるだなんて。あなた自身は、これまで沢山の人間を救ってきている」


 翁から“自分に似た人物”が京都に居るという情報を聞いてから、は密かに彼の事を調べていた。彼はが母親達を殺害し出奔した数年後、若くして藩主になったがその間もなく幕府は崩壊した。多くの大名は自らの保身に躍起になり、放り出された臣下達は新時代に生きる術が分からないまま、落ちぶれていった。

 そんな中で彼は、地の利を活かして貿易業を起こし、事業を拡大、多くの雇用を生み出している。彼の名を冠する“商船”は今や日本で一、二を争う大企業に成長していた。そのお膝元であるのかつての故郷は、半農半漁の決して豊かな郷では無かったが、東京に負けず劣らずの近代化を遂げているという。地元では彼を“英雄”として崇める人も多い────


「ふうん、世間はそんな風に捉えているんだ。……丁度いい、時間もあるんだから、少し昔話でもしようよ」




***




 海を間近に望むこの国を統治する藩主は、あまりにも暗愚かつ病弱な人間だった。彼は藩政はおろか、後継ぎを作るという役目すら満足に果たせず、家臣たちは業を煮やしていた。彼の正室は苛烈な性格で、側室を設ける事を決して許そうとしなかった。そんな殺伐とした家中に、半ば無理やり一人の女を迎え入れたのは、藩主と正室の間に十年以上音沙汰がなく、家臣達が一家断絶の強烈な危機感を抱いたからである。

 新たな側室に懐妊の兆しが出たのは、それからさらに数年後の事だった。家中がその知らせに沸く一方でその当事者である側室の女は、自身の腹の中で日増しに大きくなっていく存在に恐怖を募らせていた。


────双子なのではないか。


 確信していたわけではない。それは女にとって受け入れがたい事だった。この国には“双子は忌むべき存在”という因習が根強く残っている。今諸手を上げて妊娠を喜ぶ者達も、それが双子と分かれば簡単に、その掌を反すだろう。

 地獄の様な苦しみの末に、ようやく産まれてきた赤子は元気な産声をあげた。女児だった。後継ぎではなかったという少しの落胆と共に、女は出産が終わったことに安堵した。


「もう一人……、お子がおられるように御座います」


 重苦しい声で産婆に告げられた女は、絶望した。今産まれた子か、これから産まれる子か、もしくはその両方が、忌み子として葬られるのだ。女は再び訪れる痛みの波に耐えながら、目を閉じて唯々時が過ぎ去るのを願った。

 声を張り上げ泣き続ける女児と対照的に、後から産まれた男児はその産声が聞こえないほどに弱々しく、小さかった。二人の赤子を見てそこに居た者達が何を思ったのか、その全員が死亡している以上、真意を知るすべは無い。後に城内外に知らされたのは、“一人の男児が誕生した”という事実だった。




***




 家中待望の男児には“”という名が付けられた。は城内にある箱庭のように囲まれた場所で育った。そこにはもう一人、女の子が居た。その子どもには、名前は無かった。少女はいつも男の様な恰好をさせられていた。

 二人は常に同じ本を読み、同じ話を聞かせられた。物覚えは少女の方が少しだけ早かったが、少女は隙を見ては逃げ出し庭を走り回っていたため、少年は大抵いつも一人で講義を受けることになった。


「私も姉上と一緒に遊びたい」

「外は冷えます、お体に障りますよ」


 自由に庭を駆けまわる少女と違い、少年が外に出ることはほとんど許されなかった。少年は少女と同じぐらいの身長に成長したものの、身体は弱く、三日に一度は熱を出していた。少年は箱庭の中しか知らなかった。箱庭の外に連れていかれるのは、いつも決まって少女の方だった。


「あはは! ねえ、帯刀。この前の続きを教えて!」

「いやはや、きっと天性の素質があるのでしょうなあ。少しの稽古でも驚くほどに成長される」


 帯刀は鬼の様な厳しさで恐れられる藩の剣術指南役だったが、少女の前ではいつも優しく笑っていた。箱庭の中で働く誰もが、少女の成長を微笑ましく見守っていた。ただ少女の弟だけが、彼女の事が嫌いで、嫌いで、そして羨んでいた。


「母上……お加減は」


 双子の母親である女は、産後の肥立ちが悪かったのか、一日の殆どを布団の上で過ごしていた。少年は暇を見つけてはこの部屋に通っていた。初めのうちは何度か少女も一緒に訪れていたが、少女の方は飽きてしまったのか最近はこちらに足を向けることも無い。部屋は薄暗くいつも陰鬱な雰囲気を纏っていたが、少年はそれが嫌いではなかった。


「ありがとう……今日は少し体が軽い。けれど貴方がこの様な所に、無理してくる必要は無いのですよ」

「私は姉上の様に外で駆けることは出来ませんし、何より此処で母上とお話ししている方が楽しいのです」


 少年の言葉に女は少し困ったような笑みを浮かべた。


「貴方があの子と同じようになる必要はありません。、貴方はただ健やかに成長するだけで良いのです」


 女は痩せた手で少年の青白い頬を撫でた。なんとなく、少年は分かっていた。きっと自分も、母も、長くは生きられない────




***




 退屈過ぎる箱庭の毎日は、何も変わらぬまま過ぎていった。相変わらず少女は帯刀が来ると木刀を持って講義を放り出して行ってしまうし、教育係はそんな少女に小言を言いながらも庭に駆けだす姿を微笑ましく見つめていた。少年は退屈な毎日を与えられる大量の書物を読むことで紛らわしていた。変わったことと言えば、三日に一度は出していた熱が、今は季節の変わり目ぐらいに減ったことだろうか。


 ────あの夜、昼間の快晴が嘘の様な土砂降りが屋根を叩きつけていた時も、少年は退屈な一日の最後が多少マシになったかと思うぐらいだった。


「だれ──助──くれ、──か!!」


 雷の音で夜中に目を覚ました時、激しい雷鳴に混じって微かに声が聞こえた。子供の声、この箱庭にいる子供は自分と姉だけだ。……少年は自身の口角が自然と上がっているのに気が付いた。退屈なんかじゃない、今日は最高の一日だ。

 少しして、誰かが近づいてくる音がした。確かめようと恐る恐る障子に手を掛けた瞬間、目の前の障子が真っ赤に染まった。暴れだす心臓を押さえつけて障子の隙間から覗くと、雷の光に照らされて、土砂降りの庭を少女がいつもの様に駆けていくのが見えた。

 何処に行くというのだろう……血塗れの障子をそろそろと開けると、生暖かいものが足に当たった。首の無い女の死体に少年は思わず息を呑んだ。直視する事が出来ず視線をさ迷わせた。……庭に何かが転がっている。素足のまま地面に立つ。少年はぬかるんだ土に足を取られながら“其れ”を拾い上げた。


「え……母上……?」


 少年が手に取ったのは母の首だった。首だけになったその顔はなぜか穏やかに微笑んでいた。何故何故何故何故何故何故何故何故何故……頭がぐらぐらと揺れて少年は胃の中の物を全て吐き出し、そのまま意識を失った。




***




 再び目を覚ました少年は、あの土砂降りの夜から一週間近く経っている事を告げられた。長く雨に打たれたせいで高熱を出してしまったらしい。またも骨の様に細くなってしまった自分の腕を見て苦笑した。

 眠っていた間に、“箱庭”は文字通り跡形もなく消え去っていた。母は病で死んだという事になっていて、姉や帯刀の事を聞けば、“そんな人間は居ない”と言われた。あの箱庭の中でともに過ごしていた人たちは母以外、誰一人“跡形もなく”いなくなっていた。けれど頑なに口を閉ざす大人達に不毛な問いを続けるほど、少年は愚かではなかった。
 ────再び、何も変わらない退屈な日々が続く。骨の様だった腕が元のくらいに戻ったころ、少年は“”として江戸屋敷に上がることになった。