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「まあ、評判よりも随分と貧相だこと。これではいつ死んでも可笑しくなかろうよ」


 江戸屋敷の主の如く振る舞う正室の女は、挨拶に来たを声高く嗤った。それを咎める者は誰も居ない。ここまであからさまに悪意を向けられたのは初めての事だった。



れた糸



 何にせよ、退屈を嫌うにとって江戸屋敷での暮らしは非常に“刺激的”なものだった。何せ毎日の様に体調を崩し、生死をさ迷うような日々だったのだから。ある日、あの正室の女に呼ばれ無理を押して共に屋敷の庭を歩いていたとき、堪らずに池に吐いてしまったことがある。目の前でが苦しげにえずくのを見ながら、女はそれはもう嬉しそうに微笑んでいた。

 こうも分かりやすいのだから、毎日の体調不良が女の差し金で盛られた毒によるものだと、もちろん気が付いてはいた。しかし例え一人二人の台所人を辞めさせたところで、次の日には滞りなく、いつも通りに毒入りの料理が運ばれてくるのだ。


「それにしてもまあ、毎日毎日毒を盛られてもこうして生きておられるのですから、若様の身体は存外丈夫なのですね」

「君も病人を前にしてよくそんな事が言えるよね。結局、あの女は私を嬲りたいだけなのさ、殺す気はないのだろう」


 ひと月程前に、は江戸屋敷の門前でこの男を拾った。その顔はあの“帯刀”によく似ていて、は彼が黄泉返ったのかと驚いたが何てことは無い、彼は帯刀の息子だった。あの箱庭での一件により、帯刀家の俸禄は召し上げられたのだという。


「曲がりなりにも若様は家ただお一人の男児ですからね」

「そ、唯一無二の後継ぎ候補さ」


 “今のところだけどね”と笑えば帯刀は呆れたように息を吐いた。今からでもあの女────曲がりなりにもあれは父の正室だ────が男児を産めば、その男児が跡継ぎとなる。徳川の代を守ってきた原則は明快だが頑迷だ。正室と側室の序、長幼の序、男女の序────


「父上にはもう子を作る能力も気力も無いと思うけどね。もし出来ちゃったら……考えたくないなあ、君達のように“居なかった”事にされるのかな。この家の人間は本当にそういう事だけは得意だよね」

「それを貴方は唯々諾々と受け入れるのですか?」

「まさか」


 は僅かに口角を上げた。自分はそこまでお人好しでは無い。“目には目を、歯には歯を”.……ならば毒には何を返そうか。



***



「それで色々考えていたんですけれど、良い案が思いつかなくて。でもあれだけ“かわいがって”頂いたのに、何もお返ししないのは失礼かなあ、とも思うんですよね」


 ────この会話の一週間後、正室の女は自室で死んでいた。全ての食事を拒否し、水すら口に入れなかった末の事である。


「本当に“何も”しなかったんだけどな」


 は痩せ細った女の死体の横にしゃがみ込むとつまらなそうに呟いた。の父──藩主だった男──はこの半月前に死んでいる。死因は“病死”……もっともは病弱な父が“病死”するのを待てるほど、気が長くはなかったけれど。この件に関しては、帯刀が非常によく動いてくれた。

 ともあれは“唯一無二の後継者”となった。ほどなくして幕府からも認められ、正式に家の当主となる。



***



「この時に名前も“正継”に変わったんだ。まあそれも調べたんでしょう? その後の事は概ね姉上が調べた通りだと思うよ。もちろん“人助け”をしたつもりは微塵もないけどね」


 『丁度いい駒になりそうだったから利用しただけさ』と正継はあっけらかんとした調子で言う。感情の見えない話し方は“瀬田宗次郎”に似ていた。姉弟だから、幼い頃を共に過ごしたから……は彼と考えを共有できると頭の片隅で期待していた。自分でも驚く程に傲慢な考えだ。────それでも、正継はにとって、理解できないからと切り捨てられるような存在では無かった。


「力ある人間達に苦しめられた事があるのに、どうして正継は志々雄に協力するんだ? あいつがこの国を支配すれば、どれだけの人達が虐げられるか……」

「へえ、志々雄さんから聞いてはいたけど、随分とあの流浪人に感化されたんだね。口では何とでも言えるけど、姉上の本質は“弱肉強食”だと思うよ。今までだってそうして来たんでしょう? あの時、母上や帯刀を殺して生き延びたように」


 は息を呑んだ。全くその通りだ。どんなに足掻いたところで“所詮、この世は弱肉強食”なのだと、今まではそう思っていた。


「……ずっと不思議だったんだ」

「何のこと?」


 ぽつりと呟いたに正継は怪訝な顔をする。
 葵屋で“あの夜”の夢を見たとき、思い出したのだ。あの時、帯刀はに“生きろ”と言おうとしていた。────ずっとは疑問に思っていた。いくら鍛えていたとはいえ六歳の子供が剣の師に勝てるはずなど無い。それなのに何故、自分は生き延びたのかと。


「あの時、帯刀は俺を生かしてくれたんだよ」

『おおおおお……!!!』


 ────突然、剣心が叫ぶ声が聞こえては急いで闘技場の方を見た。眼下に見える闘技場ではいつの間にか剣心と志々雄真実の闘いが始まっている。宗次郎との一戦のせいか、剣心は既に少なくない傷を負っているようだった。……大丈夫だろうか、逸る気持ちで硝子窓に手を当てた。


「心配なの? あの人の事が」


 嘲るような響きを持ったその問いに、は再び正継を見た。こうして話していると“鏡”を見ているような気分になる。……それでも自分達は違う人生を送ってきた、全く別の人間なのだ。伝わるかは分からない、はかつての自分に向けた思いを口にした。


「確かにこの世は弱肉強食なのかもしれない。弱き人々は苦しみ、強者はそれを食い物にする。……でもそれが全てじゃないと、俺は思うよ」


 はそう言って席を立った。膝につきり、と痛みが走ったが歩けない程ではない。急く気持ちを抑えて一歩一歩出口へ向かって足を運んだ。最後に扉の手前では振り返る。


「途中で逃げるような真似してごめん。また改めて話そうよ。これからだって、時間は沢山あるんだから」


 扉を開けては闘技場へと向かう。最後に見た正継の表情が、僅かに歪んでいたのが気になったけれど、再び振り返ることはなく、は前へと進んだ。




***




 闘技場へと続く階段を下りて行ったは、先を歩く斎藤の姿に気が付いた。


「あ、生きてたんですね、斎藤さん」

「阿呆。俺が宇水なんぞに殺される訳がなかろう」


 宇水と斎藤の実力差は歴然だったから、それは当たり前の結果だけれど。はちらりと斎藤の足を見る。流石に無傷とはいかなかったようで、両太ももには包帯が巻かれていた。


「剣心を囮にアジトを好きに探索して、良い情報は見つかりましたか?」

「まあな、あいつは良い目くらましになった」


 両足を怪我しているにも関わらず斎藤の脚運びに澱みはない。すぐに闘技場の入口まで着き、はその扉に手を掛けようとした。


「………ッ!」


 突如、斎藤に刀の柄で腹を突かれたは、声も無くうずくまった。そのまま斎藤は“牙突”の構えを取る。扉の向こうからは志々雄達の勝ち誇った様な声が聞こえてきた。


「手負い一人片付けた程度で油断するその甘さが、今も昔も貴様の命取りだ」

「ッ……ホント、この人性格悪いなあ!!」


 ────が忌々し気に吐き出した声は、“牙突”が扉を突き破る轟音に掻き消された。