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────思い返せば後悔ばかりが浮かんでくる。
 今思えば、あの時の師匠の言葉は俺を思ってのことだった。
 馬鹿な俺はそれに気付かず、反発して、喧嘩して、師匠の所を出て行った。

 しかし齢十を過ぎたばかりの餓鬼が、一人で生きていける筈もない。俺はあてど無く走り続け、ある大きな街にたどり着いた。それが京の都だった事は俺の人生を大きく変える一つの要因だったのかもしれない。




語り




 あの日、京の街には雨が降っていた。
 静かに降り注ぐ雫は、一つ一つは小さくも確実にの身体を濡らし、冷やしていく。


「さむい……」


 小さな呟きは白い息と共に吐き出された。もうすぐ春も来ようかという季節だったが、それでもこんな雨の日は酷く冷える。冷えて堅くなった身体を無理矢理動かし、は歩き続けた。雨の降る街は人もまばらである。


ぐううぅううぅ……
 お腹の虫が大きくなった。それと同時にの身体が大きく傾く。重力に抗うことなくの身体は地面へと倒れた。びしゃっと音をたてて、泥水の中に沈む。
 もう起きあがる気力も体力もない。


────もうお前は必要ないのですよ


 母の言葉がの脳裏に浮かんだ。母を殺してまで得た命は、今ここでたやすく尽きてしまうのかもしれない。


────ちがう、わたしは……


 その時、雨がやんだ気がした。首だけを上に向けると、そこには綺麗な女の人が立っていた。


「ぼうや、大丈夫?」


 雨が止んだと思ったのは女の傘のせいだった。上品な着物に身を包んだその女は、どことなくの母に似ていた。


「あ……」


 ずっと飲まず食わずだったせいか、返事をしようとしたのに掠れた声しか出なかった。
 それを見た女は持っていた傘を地面に置くと、泥まみれのをその背中に担ぐ。見るからに高そうな着物を汚すのが申し訳なくて、はすぐさま背中から下りようと抵抗した。しかし女はその細腕からは想像もつかない力でしっかりとを掴む。


「悪いようにはせんから、大人しくしとき」


 そう言って地面に置いていた傘を肩に引っかけ、女は歩きはじめた。規則的にゆれる背中に、は安心したのだろうか、いつの間にか深い眠りについていた。


────どんなに望んでも手に入れることのできなかった母親の背中、それはこんなにも暖かかったのだろうか

 ただ……わたしは……ははうえにあいされたかった────







***



「ただいまー」


 がらりと扉を開けて踏み入れたのは料亭葵屋。隠密御庭番衆の京での拠点とするため作られた小料理屋だ。泥まみれの椿とを迎えたのは此処を統べる男、“翁”だった。


「なっなんじゃ! 椿、その童はどうしたんじゃ!?」

「そこんとこで拾たんよ。えらい弱ってはるようやから、何や食べさせたってくれへん?」

「それは良いが……」

「ついでに翁にこの子の面倒みてもらいたいんやけど」

「な……いきなり何じゃあ!?」


 椿のいきなりの申し出に翁は驚いて腰をぬかした。もちろん“フリ”ではあるが。 翁の大袈裟な行動に慣れている椿はまったく気にした様子もなく話を続ける。


「この子背負ってて感じたんやけど、えらい良い筋肉してんのや。それにこの手見たら分かるけど、長いこと剣握ってた手やで。鍛えればええ戦力になると思う。京の都もどんどん物騒になってきて人手も足りひんのやし、ちょうどええやろ」

「ふむ……そうじゃの。この童が起きたら聞いてみるかの」


 椿に促されて翁が少年の事をよく見てみれば、なるほど腕は程よい筋肉で引き締まっており手のひらは剣だこが出来るほど使い込まれている。少年にその気さえあれば、隠密として鍛え上げるのも悪くないように思えた。


────椿の背中でぐっすりと眠っていたは、後に翁から事の次第を聞いて酷く驚いた。しかし、行くところもないが翁の申し出を受け入れたのは言うまでもない事だった。