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村を出た真実がそれからどの様に生きたのかを、は知らない。
────真実は京の街で血の雨を降らせていた。
もともと真実という少年は、善悪という概念を持ち合わせてはいなかった。人のものを盗んではならぬとか、人を傷つけてはならぬとか、人を殺してはならぬとか。そういった類の“道徳”は真実にとっては弱者の戯言に過ぎなかった。
そんな真実が一人で生きていくために何をしたか。彼は人のものを盗み、人を傷つけ、人を殺した。
「君の噂を最近よく耳にしてね。どうだい、その強さを見込んでやってもらいたい事があるんだが」
真実の所業は“怪談話”の様に京に住む人々の中でまことしやかに語られていた。もちろん京の治安を守る新選組や見廻組、町奉行などが放っておくわけも無い。白昼堂々と悪事を働いていた真実は、彼らの襲撃に合う事もよくあった。余談だが、そういった連中はその殆どが真実の無限刃の“糧”となっている。
しかし今日の襲撃者はいつもとは毛色が違った。むしろ対極と言って良い。その男──桂小五郎──は刃を向ける真実に対し鷹揚な笑みを浮かべている。
「人殺しの依頼か。それなら金次第だ、幾ら出す?」
「君を金で雇うつもりは無い。新時代を作る為に、我々に力を貸してくれないか」
桂は己が倒幕を目論む志士だと話す。いつもの真実であれば、「金が無いなら話にならない」と一蹴しただろう。ただこの頃の彼は、代わり映えの無い毎日にいささか退屈をしていたのだ。
真実は桂の誘いに乗った。
もちろん真実に桂達と共有する“志”など無かった。桂も心から真実を信用していた訳ではない。互いが互いを利用しようという思惑を腹に持ちながら────ここに“志々雄真実”という人斬りが誕生した。
***
“あの日”から幾度も季節は廻ったが、真実が村に戻ってくる事は無かった。しかしそれで良かったのだと、は今になって思う。
ふた月ほど前、流行り病があっと言う間にの村を飲み込んだ。
この病によって村の人口は半減し、その犠牲者にはの父も含まれていた。真実の両親も──そう、彼の両親は健在だったのだが──例外ではなくこの流行り病によって命を落としていた。
(真実くんは元気かな……)
はこの所よく真実の事を思い出すようになっていた。それは唯一の肉親を失い無意識に心の拠り所を求めているからか。それとも苦しみもがきながら死んでいった父の顔が、真実に重なり不安になったからなのか。
その問いに答えを出すことも無く、は京の街へと向かった。うだるように暑い、ある夏の日の事だ。
もちろん街に出たとて、そこに真実が居る保証など無い。外れにあるの村からは半日ほど歩く事になるが、見つからなければ安宿にでも泊まれば良い。
そうして当てもなく京へと出て来たは、ぶらぶらと大路を歩いていた。
華やかな京の街にいささか気後れしながらも、はすれ違う人々の人相を一人一人確かめていった。しかし残念ながら──普通に考えれば至極当然の事なのだが──まる一日かけても真実の姿を見つけることは出来なかった。
結局とっぷりと陽も暮れてしまい、は取り敢えず手近な店で夕飯を取る事にした。引き戸を開ければ、店内にはガヤガヤとした喧噪と共に旨そうな匂いが広がっている。
入り口近く隅の席に座り、店で一番安い定食を頼む。この店に真実が居れば驚きだが────とはぼんやりと周囲を見渡した。
この日のは飛びぬけて幸運だったに違いない。
正しくその目の前の席で、彼の“探し人”が酒を煽っていたのだ。
(真実くん……?)
の“近目”は年を取るごとに酷くなっていた。ぼやけた輪郭だけでは確信できなかったが、前席に座る男の姿は真実によく似ているような気がする。
もっとよく見なければ、とはいつもの癖で目を細めた。
────それが良くなかったのかもしれない。やにわに男が立ち上がり、の座る卓に大きな影を作った。
────真実くんじゃない!
近くに立たれれば流石にでも分かった。何とも間抜けな話だが、つまりは赤の他人をずっと見つめていたという事になる。
「おい、お前喧嘩を売っているのか!?」
怒声と共に強く卓を叩かれ、の身体はびくりと強張った。男の声に、先程まで賑わっていた店内がしんと静まる。
「お、お客さん、騒ぎは……」
「五月蝿い!」
店主が場を収めようと慌てて男に駆け寄った。
男の怒りはあっと言う間に店主にまで飛び火して、殺伐とした空気が店内に張りつめる。何とかしなければと、は男を連れて店を出ようとした。が一方的に殴られる──ともすれば殺されるかもしれない──展開が目に見えているが、それでも関係の無い店主が害されるよりはマシだ。
しかしが立ち上がるよりも早く、いきり立つ男の前に割って入った者が居た。
男よりも随分と小柄な青年は、そのひと睨みだけで男を退け、金を置いてあっという間に店から出て行ってしまった。
「────ま、待ってください!」
は青年を追いかけて店を出た。結局金だけ払う事になってしまったが、それよりも彼の事が気になっていた。
振り返った青年は、表情こそよく見えなかったものの明らかに怒っていた。全身を襲う寒気には身体を震わせたが、それを押し込めしかと彼を見据える。
「あの、助けて頂いて有難う御座いました」
「今の京都は物騒だ。喧嘩等、むやみに売らない方が良い」
「申し訳ない……そんなつもりは無かったんです。俺はただ人を探していただけで」
改めてよく見た青年はと同じぐらいの歳に見える。しかしその雰囲気は随分と大人びていて、頬には整った顔に似合わない大きな十字の傷痕があった。
「そういう目つきで人を見るから、ああいう奴に絡まれるんじゃないか」
からかう様な口調で指摘されて、は自分がまた渋面して人を睨んでいた事に気が付いた。かつての真実とのやり取りを思い出して思わず笑みが零れ出る。しかし青年が怪訝な顔をしたのを空気で感じ、は慌ててそれを引っ込めた。
「すみません。貴方の言い方が真実くん……あ、今俺が探してる人なんですけど。その人にそっくりで」
「まこと……?」
「そうだ! 助けてくれたお礼に何か奢らせてくれませんか。俺のせいで貴方も飯を食べそびれたのでは?」
の提案に、青年は呆れたように深く息を吐き出した。
そして探る様に一瞬周囲を見たかと思うと、驚くほど強い力での腕を掴む。突然の事に抗う事もできず、はあっと言う間に路地へと連れ込まれてしまった。何も見えない暗闇の中で、彼の瞳だけがギラギラと光っている。
「“まこと”という人物を、俺は知っているかもしれない」
「本当に!? 真実くんは、今何をしているんです? 会って話したいんです」
抑えた声で告げられた言葉に、の顔が無邪気な喜色で溢れた。まさかこんな所で縁がつながるとは、は思いもしていなかった。
「────何処までお前は呑気なんだ」
「……!」
一瞬の内に胸倉を掴まれ、の身体は壁に叩きつけられた。自分の方が背丈も上の筈なのに────
驚きのあまり息を詰まらせるに、青年は苦り切った声音で言葉を続ける。
「これ以上、“俺達”に関わらない方が良い。幕府側の連中には目的の為なら手段を選ばない奴も居る。お前が“真実”に近しい者だと知られれば、それを利用される事だって有り得る」
男の忠告はの心に重く沈んだ。
かつて自分が人質に取られたせいで──そう思うのは自意識過剰かもしれないが──真実が人を殺めることになったのを思い出す。力の無い自分がこれ以上首を突っ込めば、彼に迷惑をかけてしまうかもしれない。
***
暗闇の中では一人、うずくまっていた。
青年は既に去っていた。彼の頬に残された十字の傷だけが、の頭に鮮明に焼き付いている。
ふと自身の首を触った。かつて人質にされた時に切られた傷は、今や薄っすらと筋を残すだけとなっている。
────彼の傷は、今斬られたばかりの様に、深く、生々しく、残っていた。