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は京の情勢に酷く疎かった。
だから彼の青年の目立つ赤毛や頬の十字傷を見ても、それを“人斬り抜刀斎”と結びつける事は出来なかった。
────ましてや真実が“影の人斬り”として京都の闇に暗躍している事など、知る由もない。そうしてが“志々雄真実”という人斬りを知らないまま、知ろうとする事もないままに、月日が流れた。
***
慶応四年、
正月を迎えたばかりの京都は混乱を極めていた。
幕府と維新志士達の戦がもうすぐ始まるのだと、何処が戦場になるかも分からないのだと、は村に避難してきた者達から伝え聞いた。
────こんな時になって、思い浮かぶのは真実の事ばかりだ。
父を流行り病によって亡くしたの生活は困窮しており、必死で働かなければならなくなった。それは余計な事を考えなくて済むという一点に於いては都合が良い。脳裏を占める真実の存在を無理矢理すみに追いやり、は自身の日々の生活を優先していた。
「伏見の方で戦が始まったらしい」
「だいぶ近いな。ワシらも一端逃げた方が──」
そして一月三日、ついに戦が始まった。
の村からもその煙が見える。地面を揺らすような轟音が、逢魔が時の空に響いていた。日が暮れてもその音は止むことが無く、不安の中には一夜を過ごすことになった。
一夜明け、一晩続いた戦いは維新志士側の勝利で幕を閉じたという。勝ち鬨を上げる維新志士達の中に、きっと真実も居るのだろう。
(無事ならば良いが……)
真実は強い。────けれど強いからこそ、妬まれ、恐れられ、敵が生まれる。
***
「志々雄真実の所在を知らぬか」
「何故、彼を探しておられるので?」
「……知る必要の無い事だ。志々雄真実がどこに居るのか、心辺りがあれば洗いざらい話せ」
京の戦火が落ち着き、村に避難していた人々も再建の為に街に戻り始めた頃、の元に“招かれざる客”がやって来た。
彼らは維新志士を名乗り、『“志々雄真実”が村に居ないか、その所在を知らないか』と問うてくる。同じような事を村の他の人間にも聞いているらしいが、何年も前に出て行った真実の所在を知る者などこの村には居ないだろう。
もその例外ではなく、男達の詰問にも知らぬ存ぜぬを貫く。誰かがと真実の事を言ったのだろう。男達は執拗にを問いただしたが、知らないものを答える事は出来ない。男達はやがてに見切りをつけ、また別の者の所へと向かったようだった。
────それにしても。
男達の様子は尋常ではなく、なにか焦っている様にも感じられた。────嫌な予感がする。たとえ真実の居場所を知っていたとしても、彼らに教えることはしなかっただろう。
今何をしているのだろう。
彼らは仲間ではないのか。
何故、真実は彼らに追われているのか。
今になって、真実について何一つ知らない事を痛感する。真実が村を出てからずっと、は心配する思いに目を背けて、真実の強さに縋って自分の臆病さを正当化してきた。
あの十字傷の男が残した言葉は、呪いのように今もの足に楔を打っている。
***
あの男達は、今晩はこの村に留まるという。
は彼らに気取られぬよう夜遅く、記憶を頼りに暗闇の中を真実の生家へと向かった。
半開きのまま放置された引き戸から中を覗き込めば、誰かが居るような気配はない。そろりと身体を滑り込ませ、灯りが外に漏れぬよう窓を塞いだ後、はろうそくを灯した。
(やっぱり……随分と荒らされている)
ぼんやりと見えるようになった屋内を見渡せば、家財は全てひっくり返され、その多くが無残に破壊されていた。
は極力音をたてないように息を詰めながら、散らばる家財を元の場所へと戻していく。
そうして酷く荒らされた室内が半分程片付いたころ、微かな物音が聞こえた。
あの男達に気付かれたのだろうか、とは恐る恐る戸の隙間から外の様子を覗くが、ただでさえ月明りもない暗闇だ。近目のには闇に潜む者の姿を捉える事は出来ない。
足音は迷わずこの家へと近づいてくる。はろうそくの火を消して僅かな物陰に身を縮め、必死でその息を殺した。
引き戸を開け、入ってくる音。このままでは見つかる────
「なんだ、じゃねェか」
頭上から降って来た男の声には肩を飛び上がらせた。
反射的に声がした方向を見上げる。暗闇の中にぼんやりと浮き上がった顔には思わず息を呑んだ。
「…………!」
声だけでは確信が持てなかった。床に転がしてしまった蝋燭に灯をつけ直せば、男の姿が露わになる。
「……っ」
「何だ、俺が分かんねェのか?」
は掠れた声の代わりに強く首を横に振った。
「……真実くん、だよね」
「久しぶりだな、」
真実は口角を上げ、笑みを深める。懐かしい、笑い方だ。────だのにその頬は引き攣り、その唇は削げ落ち、その皮膚は溶け、閉じる事の無い口からはだらだらと涎が垂れ流されている。
「とにかく、手当しよう。ちょっと待ってて! ありったけの布、家からかき集めてくるから」
言葉通り、すぐさまは自身の家から全ての包帯やその代わりになる布を引っ張り出し、真実の家へと戻った。
全身に重度の火傷を負っている真実にその包帯を巻いていく。素人の生兵法になるかもしれないが、何もしないよりはマシな筈だ。
包帯を巻きながら近くで真実を見れば、想像以上の酷い状態には言葉を失う。いったいどれ程の痛みがあるというのか────
「あいつら、中途半端に焼きやがったせいで全身痛ぇんだよなあ。もっと深くまでやられてたら痛くならねぇのに」
「いったい、何をされたんだよ」
布が傷口に触れる度に、真実は僅かに顔を歪める。は沸々と湧いてくる怒りを抑えながら真実に問うた。
渋面するを笑いながら、真実が眉間を指で突いてきた。一瞬触れた肌の熱に驚きながらは真実を見る。
「勝利を祝うフリして眉間を突かれて、気を失った。気が付いた時には全身切り刻まれて火までかけられてた。────ま、俺の考えが甘かったんだ。文句はねェけどな」
は息を呑んだ。
真実が淡々と語る内容は、酷く残酷なものだった。
「俺は……真実くんが生きてて良かったよ。本当に……良かった」
「お前には関係ないだろ?」
「だって俺、真実くんの事が大好きだからさ」
長い間会えなかったとはいえ真実はの唯一の友人であり、は真実の生き方に強い憧れを抱いてもいる。はそれを率直に伝えたつもりだった。
しかしそれに対して真実は何も返してこない。何かまずい事を言っただろうか──と自身の発言を振り返った所で、ようやくは自分があらぬ誤解を生んでいた事に気が付いた。
「──あ、言っとくけど、変な意味じゃないぞ!」
の剣幕に真実は一瞬目を見開いた後、クツクツと笑いを漏らした。
「そうか、そりゃ良かった。俺は男色の趣味はねェからな。抱くのは女に限る」
「こんなミイラ男じゃ、流石の真実くんも女には苦労すると思うけどね。はい、出来た」
どうせ最初から分かっていたのだろう。からかわれたはむっとしながら傷痕に巻いていた布を最後にきつく縛った。
「本当にイイ男ってのはどんなナリでも女の方から寄ってくるんだよ」
そう言って真実は不敵な笑みを浮かべる。の素人仕事で巻かれた包帯はいびつで、精悍だった面影は残っていない。
────それでもその姿は、最高に格好良かった。